蜘蛛

我が家では蜘蛛は蝿やゴキブリを捕らえてくれる益虫とみなされていて、

見かけてもそっとしておくことになっている。

 或る日私は風呂場で頭を洗っていた。ふと見ると、足元のタイル張りの床を石鹸の泡に

まみれて流れて行く一匹の蜘蛛を見つけた。

 わたしはその胴をつぶさないよう細心の注意をはらいながら摘み上げ、石鹸などを置く

ためのスタンドの上にそっと寝かせた。

その蜘蛛はまるで水に濡れたモナカの皮のようにぐんにゃりとして今にも溶けてしまいそ

うだったが、それでもまだ動く気配を見せていた。

 それは淡い灰色の、小豆くらいの大きさの胴体で、その胴の直径の4倍ほどの長い足を

もっていた。

 私はその蜘蛛の体が乾いて張りを取り戻し、元気になってほしいと、思いはしたが、期

待はしていなかった。それほど私の目には絶望的に見えた。

 風呂を出るとき、そのことをもう忘れはてていたのであったが、翌日思い出して風呂場

を覗いてみるともういなかった。

 その翌々日、歯を磨いていると洗面台の横の垂直の白い壁面に一匹の蜘蛛が張り付いて

いるのが目に入った。

「あの蜘蛛とよく似ている、ひょっとしたらあの蜘蛛では?」と一瞬考えがよぎった。私

は指先でそっとつついてみたが、たいてい蜘蛛は逃げるのにその蜘蛛はほとんど

動こうともせず、2、3ミリ移動しただけであった。

 その後妻が「昨日風呂に入っていたら蜘蛛がお湯に浮いていたので掬い上げて洗面台の

横のティッシュの箱の上においておいた。」と言ったので、やはりあの蜘蛛であ

ることは間違いないと確信した。

 次の日もまったく同じ場所に居るのでよくよく見ると、右側には足が4本ついているのに、左側には

3本しか無かった。

足が1本取れて、無くなっていたのである。

次の日はその真下の床の上にいたが、その翌日からはもうどこを探しても見つけることがで

きなかった。

 ネットで検索してみると「蜘蛛は足が3〜4本無くなっても身体能力にはさほど影響は

無いそうですよ。伊達に6本も8本もあるわけじゃないんですね。」

と書いてあったので、どこかで生きていることに望みをつないだが、もうそれきりみかけ

ることはなかったのである。
                      おわり




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