飫肥物語

祖父は日南地方、飫肥藩の下級士族の長男に生まれた。

私はその人となりを全く知らなかった。

私が生まれた昭和20年より10年前、昭和10年に伯母の元で息を引き取ったからである。

私が成人し、孫が出来ても、写真すら見たことがなかったが、なにかに引き寄せられたか

のように、にわかに祖父のことが日常にちらつき始めた。

それは私が60歳をむかえ、仕事を辞めて暇暮らすようになったからかもしれない。

祖父は元々、45石取りの飫肥藩士で、安政四年(1857)に生まれ、昭和十一年(1936)

に七十九歳で没している。

明治維新になってから、医師として身を立てるべく、長崎に出向いて医学校に通っていたが、明治10年

に西南戦争が始まると、「小倉処平」率いる飫肥隊の一員として、参戦した。
  

明治元年の戊辰戦争の折、薩摩藩閥の飫肥藩への不信から飫肥隊は後方支援にまわされ、飫肥藩士は

屈辱を味合わされることとなった。このことが十年後の西南戦争で飫肥藩士族が積極的に西郷軍に

参戦する一因であるといわれている。

祖父19歳、血気盛んな年頃である。さぞ勇み立ったことであろう。

小倉処平と小村寿太郎
  

小倉処平は飫肥の英雄であり、祖父ら若者の仰ぎ見る、憧れの人であった。

自身、飫肥藩校、振徳堂から東京大学の前身である大学南校に学んだ俊英である。イギリスに留学

するなど、日本の将来を担うほどの人材であったが、当時10歳前後であった小村寿太郎を見い出し、

その優れた資質を認め、献身的に導いた。 体の弱かった寿太郎が熱を出すと、自ら手ぬぐいを絞って

額を冷やすなど、看病にあたったこともあった。
 

処平が大学南校時代、明治政府に建議した貢進生制度は、寿太郎を念頭に置いたものであった。

処平は寿太郎を大学南校に入学させようとしたのであったが、入学者は薩長土肥などの大藩の出身者に

限られており、小藩出身者が入学する枠はなかった。
 

明治3年7月、政府は大学改革を断行し、この時処平から建議されていた貢進生制度を採用した。

これにより寿太郎は飫肥藩の貢進生として大学南校への入学が許可された。この制度の功績は単に寿太郎

を世に出しただけでなく、各分野で活躍する多くの若者たちを世に送り出す契機となったのである。

寿太郎もよくその期待に応えて大成する。

米国、ハーバード大学留学時代は成績抜群の秀才として知られ、現地の学生に帽子をとって敬意を表される

等のエピソードを残している。

東京で文部省の要職にあった処平であったが、西南戦争の勃発を知るや、西郷軍に身を投じるべく帰郷

した。 しかし、体調を崩し参戦が遅れた。飫肥隊を率いて出兵したときには西郷軍はすでに防戦一方となって

おり 失意のうちに延岡市北川町において自刃して果てた。飫肥西郷と称された処平32歳の惜しまれる

最後であった。

その地にはその死を悼む碑が建てられている。

それから3年後に米国留学を終えて帰国した寿太郎は墓の前に号泣し、長く立ち尽くしたという。

寿太郎がもし国内に居たとしたら処平に従い、参戦したであろうが、それは、寿太郎の器を知り尽くす

処平であれば、望むところではなかったのではないだろうか。

寿太郎のその後の活躍は改めて述べるまでも無いことである。

祖父の戦中の足蹟を記すものは何も残されていない。

後年、昭和になってから、母は祖父に連れられて何度も上京した。その折り、列車が延岡市北川町を通過す

る度に、 窓を開けて外を眺めながら、懐かしそうに「昔、戦争があってお父さんたちはここで戦った。」と戦の

様子を 話して聞かせた。

それは少女であった母に理解できる程度の話であったであろうが、母が「どちら側だった。」と聞くと

「負けたほうだった。西郷さんの方だった。」と答えたそうである。

「お父さんたちは逃げてきて、ここで戦った。」とも言ったそうで、西郷に従い各地を転戦したことがうかがえる。

延岡北川町、和田越えの戦いは西郷自ら指揮した、西南の役最後の決戦である。

この戦いに敗れ、西郷軍は壊滅状態となり、降伏したものも多かった。

祖父は降伏して後、許されて故郷に帰ったか、西郷に付いて鹿児島まで行ったのか、この間のことは判然と

しない。

だが、和田越えの戦いを逃れ、可愛岳を越えて上祝子川にたどり着き、「渓流の大岩の上で、西郷先生と

碁盤を囲 んだ。」と後になって周囲の人たちに語っている。真夏八月のことであり、西郷が碁を好んでいた

ことは周知の事である。祖父も碁が達者であった。

このことから西郷の帰薩に従って鹿児島まで行った可能性が高いが、裏付ける資料は何もない。

生還した後、翌年十一年にはすでに、明治七年に制定された医制の制度に従い、医師試験を受け、免許を

取得して 医院を開業、昭和十年まで診療を続けた。

西南の役従軍者名簿や従軍者の碑にその名を残している。




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